ディーン・マーティン:1971年ラスベガスのカジノにて

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ディーン・マーティンとは、ハンサムで洗練されたイタリア系アメリカ人の歌手です。ほろ酔い気分のステージでの存在感と機転の良さもあり、40年近くラスベガスで最も人気のあるパフォーマーの一人となりました。1917年にオハイオ州スチューベンビルで、ディノ・ポール・クロセッティとして生まれました。若い頃から、様々なギャンブル活動に参加し、違法カジノでブラックジャックのディーラーとして、数か月間働いたそうです。

しかし、1946年に改名し、当時若いコメディアンであったジェリー・ルイスとコンビを組みました。史上最高のミュージカルコメディを作ることを目指し、テレビ番組やラジオ、映画、ナイトクラブにまで出演しました。このコンビは、ラスベガスのストリップショーにおいて最も人気のあるショーの一つとしてランク付けされました。しかし、ディーン・マーティンは、自身の役柄に飽きてしまい、1956年にソロとしてのキャリアを追うことを決心します。

ソロのアーティストとして、1957年にディーンはホテル「サンズ」にて演奏を披露しました。当時、カジュアルでゆったりくつろいだ音楽スタイルで演奏してました。しかし、バラードに長けていたことにより、最も人気のあるストリップパフォーマーの一人となりました。この地位の確立により、ディーンはあっという間に、5年間の契約を同ホテルと結ぶことができたのです。

ディーンは、演技を通じて、最高のコメディアンであることを証明しました。その一方で、「コパ」での単独ショーにて、いつもスコッチとバーボンをドリンクカートでディーンに運んでくるショーガールたちがいました。過度の飲酒で非難された際には、「これ以上も飲まないし、これ以下も飲まない」とよく言っていたものです。

1960年、ディーン・マーティンは、友人のピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップ、サミー・デイビス・ジュニア、フランク・シナトラと共に『サンズの頂上』と呼ばれる伝説的なショーに出演しました。ショーではあったものの、彼らのグループ「ラット・パック」は詳細にリハーサルを行いました。これら数多くの即興劇を通して、ディーンのカリスマ性と自由精神を垣間見ることができます。

しかし、ピーター・ローフォードが米大統領ジョンF.ケネディの妹と結婚したことで、「ラットパック」の時代は終わりを迎えました。ピーターは、マフィアとの繋がりを疑われていたフランク・シナトラから距離を置く必要があったのです。その後、ディーンは「サンズ」を離れることを決断し、ホテル「シーザーズ・パレス」での公演を開始します。それから一年後の1969年には、「リビエラホテル」と週20万ドルの契約を結びました。エンターテインメントコンサルタントであると同時に、共同オーナーでもあったのです。

しかしながら、他のホテルオーナーらが、ディーンのナイトショーを2晩から1晩に減らすことに決めたため、1972年に同ホテルを去りました。リビエラホテルは、ディーンの所有株を買い戻したそうです。ディーン・マーティンは、エンターテイナーとしてのキャリアに加え、テレビや映画でも活躍しました。映画『サイレンサー』シリーズの全4作品に出演したほか、彼自身のNBCウィークリーショーも立ち上げました。

しかし1980年代に、ディーンの人生は、悲劇的な変化をしはじめました。腎臓病と診断された上に、1987年には悲運にも、飛行機墜落事故で息子が亡くなったのです。この恐ろしい運命の転換によって、ディーンはキャリアに対する情熱を失い、多くのコンサートやツアーをキャンセルしました。

ディーンの最期のメディア出演は、1990年のラスベガスであり、1995年のクリスマスの日に亡くなりました。しかしディーン・マーティンは、世界で最も有名なパフォーマーの一人として、特にラスベガスにおいて伝説を残したのでした。